上田城は、1583年、真田昌幸によって築かれた平城で、千曲川の河岸段丘を利用して、
高台に位置している。堀と土塁に囲まれて、いかにも難攻不落というイメージである。
第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退した実戦経験をもっている。
城内には博物館があり、「真田親子犬伏密談図」が展示されていた。
関ヶ原の合戦の前哨戦で、真田昌幸と真田幸村の父子は、石田三成側に、
真田信幸は、石田三成を見放して徳川側に、父子が相分かれて戦った。
「犬伏密談図」は、栃木県佐野市犬伏で、真田父子がどちらの側につくか、密談した模様を
描いたもの。佐野市犬伏新町にある薬師堂が、密談した場所とされている。
上杉討伐で宇都宮に向かっていたところ、石田三成から豊臣方につくよう密書が届いたとのこと。
どちらが勝っても、真田家が残るよう、分かれて戦うことを決断したと言われています。
父子の真剣な表情が、父子が分かれて戦う当時の世相を表現している。
1600年9月、昌幸と幸村は、上田城にたてこもり、3万8000人の徳川軍に対し、
わずか2500人で戦い、徳川軍に大きな損害を与えた。
戦いの決着がついた後、父と弟のために、信幸は助命嘆願に動き、
昌幸と幸村は処刑されて当然のところ、高野山に蟄居することになった。
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